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/ MacUser ROM 45 / MACUSER-ROM-VOL-45-1997-08.ISO.7z / MACUSER-ROM-VOL-45-1997-08.ISO / READER'S GALLERY / READER'S GALLERY97⁄8 / 京都府 吉川敦 / うつつ / うつつ その4 < prev   
Text File  |  1997-06-07  |  21KB  |  209 lines

  1.                    ☆         
  2.  
  3.  不定型になった僕はいつしか宙に浮いていた。いや、それは嘘だ。宙にあるだけ。僕という意識が宙にあるだけ。意識はとても澄んでいる。余計なものは何もない。形は白い靄のように微かに見えるくらいのもの。ふわふわと形を流動させている。でもそれも束の間。ほんの束の間の出来事。  
  4.  
  5.                    ☆         
  6.  
  7.  突如、風景は光速的に変化した。僕の意識は病室の中にいる。まず目に付いたのは白い壁と大袈裟な機械。ベッドはひとつで、寝ているのは僕。ちゃんとした形の僕。鼻から管を入れられ、頭に包帯をした僕が目を閉じている。顔中、傷だらけ、体中、血だらけだ。その周りには父と母と姉が青ざめた顔でベッドの上の僕を見下ろしている。傍らに白衣の医師が機械のメーターに見入り、その横で二人の看護婦が能面面で立っている。僕の意識はそれを天井から眺めていた。僕は何も思わない。何も思えない。ただ、それを見ているだけの完全なる傍観者の立場。
  8.  僕の意識は外に出る。暗い廊下。蛍光灯よりも非常口を示す緑の光の方が明るい。ベンチには同僚の六人が両手で頭を抱え込み、座っていた。会話はないようだ。唇が一文字に結ばれている。誰も何も喋らない。時々、おもむろに病室のドアを見る。
  9.  僕の意識が部屋の中に戻った。
  10.  部屋の中が慌ただしくなった。医師が僕の顔を覗き込み、目蓋や口内をいじくり出した。代わって看護婦がメーターの見張り番。二人は間を空けることなく何事かを報告している。僕には聞こえない。何も聞こえない。母が僕の手を握った。何かを祈るように、そして、少し震えている。医師が僕の胸を心臓マッサージし始めた。額に汗が光ってる。僕の裸の胸の上にぽたりぽたりと汗は落ちる。やがて振り向いた医師が父に向かって首を横に振った。母は叫ぶ。号泣する。
  11.  そこで僕に聴覚と感情が戻った。母の声が木霊している。洞窟で鳴く類人猿のように響いている。僕はここだよ、母さん!声を出そうと踏張るが、母には聞こえていない。僕はとても伝えたい。ここにいるんだ。本物の僕はここにいるんだ、と。僕はどうにかしてその方法を見付けだそうと頭を捻るが、何も浮かばない。僕は形のない浮遊物。彼らには見えない代物。もどかしさばかりが膨れていく。
  12.  突然、誰かに引っ張られる感じ。背中についた糸を、卵の中の卵黄を繋ぐカラザのような半透明の糸で、手繰り寄せられているような。急速に病室の中から、意識は上昇していく。遠ざかる風景。病院、夜の街、日本、世界、地球。僕は暗黒に引き摺られていく。思いとは裏腹に。全く裏腹に。
  13.  
  14.                    ☆
  15.  
  16.  天才アインシュタインにはこんな名言が残されている。
  17. 「神はダイスを振りたまわず」
  18.  これはボーアを中心としたコペンハーゲン派学者による不確定性原理(客観的観測に対して独立した局所的実在というものはなく、粒子は確率論的にしか表されない)を批判した時の言葉だ。アインシュタインは自らの自然=神に対する美学とは相反するこの説を忌み嫌った。
  19.  こんな言葉も残っている。
  20. 「あなたがたは、見ているときだけに月がそこに存在していると、信じているのかね?」
  21.  現在でも一般相対性理論と量子力学は物理学に君臨する二大勢力として敵対している。統合しようという動きはあるが、まだ誰もそれに成功はしていない。
  22.  もし、どちらも間違っていたら ・・・・・・ これは大笑いだ。真実とはまったく見当外れの理論だとしたら、それはもう完全なる道化だ。一千年後の未来の教科書で、アインシュタインは二十世紀の有名な錬金術師として記述されているかもしれない。
  23.  科学の描く映像と真実との距離はどれくらい離れているのだろう?現在の科学はどこまで本当のことを言っているのだろう?
  24.  科学。
  25.  それを信じるも、信じないも、あなたの勝手だ。
  26.  
  27.                    ☆
  28.  
  29.  気が付くと真っ暗闇。母の泣き声だけが耳にこびりついている。僕の体は濁った水晶のよう。さっきよりは輪郭がはっきりしているが、何故、この漆黒の闇の中で体が見えるのかは分からない。何処にも光はないのに不思議だ。
  30. 「やっと、気が付いたのかい?」
  31.  隣で声がした。振り向くと、僕の右側に二本足で立つ白い猫がいる。背丈は僕の腰ぐらい。一人前の眼差しを僕に向けている。公園で会った猫だ。間違いない。
  32. 「ずいぶん、長い間、向こうに行ってたね。待ちくたびれたよ。もう、お別れはすんだのかい?」
  33.  猫は生意気な口を聞く。
  34. 「ここは何処なんだい?」
  35. 「あんたは ・・・・・・ そうか、何も知らないんだよね。人間だったから。ゆっくりと説明してあげるよ」
  36.  猫はいったん言いかけて、やめる。
  37. 「それじゃ、歩こうか。おいら、ずいぶん待ちくたびれたんだ」
  38.  僕達は歩き出した。猫は歩き方も一人前だ。すたすたとマラソンのピッチ走法みたいに足を動かす。僕の方が歩くのが下手な感じすらする。
  39. 「どこから話そうか?そうだな ・・・・・・ あんたは何から聞きたい?」
  40.  何からも、何も、さっぱり事態が掴めてない僕に何を聞けというのか。どれも本当のようだし、どれも夢のような気がしているんだから。どれを本当にしていいのか僕には判断がつかない。
  41. 「始めから」
  42.  ようやく口にした言葉がそれ。
  43. 「始めから?」
  44.  語尾を上げ、猫は面倒臭そうに顔を歪める。
  45. 「しょうがないな ・・・・・・ 。最初から言うのは面倒なんだよ。骨が折れるんだ。でも、それがおいらの役目だしな。それじゃ言うよ。よく聞いてな」
  46.  とてもぶっきらぼう。
  47. 「おいらは公園にいた。あんたが来るのを待ってた。仲間の猫に頼んで、浮浪者も追い出してもらった。ひとりでやりたかったからね。時間どおりにあんたは来た。ちゃんとひとりで来た。おいらはあんたにサインを出した。あんたはそれに答えた。あとは予定どおりだ。大通りまで走って、車が来て、しっかりと轢いていってくれた。おいらは即死。あんたは頭を打って、五時間後に病院で死んだ」 
  48. 「死んだ?」
  49. 「そうさ、まだ分かってなかったのかい。あんたは死んだんだ。おいらと一緒に」
  50. 「でも ・・・・・・ 」
  51.  僕は何か言おうとした。でも頭の整理に精一杯で、言葉まで回らない。
  52. 「あんた、見たんじゃないのかい?自分の死ぬところを。それだけは見せてもらえることになっているはずだよ」
  53.  さっき見たばかりの母の号泣を思い出す。そして、僕は力なく頷く。
  54. 「確かに見たよ。それじゃ、あれは本当のことだったんだ」
  55.  僕の足取りが鈍った。猫は僕の歩調に合わせ、少し速度を緩めた。
  56. 「あんたが何を見せてもらったのか、おいら、知らないけど。あんたの見たものはすべて本当に起こったことだよ。今、こうして歩いていることも。細かいことはあとで説明してあげるよ。ねぇ、歩こう。おいら、急がなくちゃいけないんだ」
  57.  僕は猫の歩調に合わせた。猫は半分くらい怒っているように見えた。苛立っていたようだ。黙ったまま真っすぐ前を見て、前足を勢いよく振り歩いている。僕はもう一度、頭の中で今まで起こったことを整理してみることにした。
  58. 「質問していいかい?」
  59. 「いいよ」
  60.  猫はとても無口だ。
  61. 「僕は君と公園で会った。それで事故にあった。そこまでは本当の出来事のような気がするんだ、自分でも。でも、その後は信じられない。すごく生々しい出来事だったけれど、あまりにも奇想天外なことが多すぎて。実感はあるんだけど、うまく飲み込めないんだ。頭の中で何かが邪魔をしていて、それを飲み込んでくれないんだ」
  62.  それが今の僕の素直な気持ち。正直な感想だ。
  63. 「あんたは何を見たんだい?」
  64.  猫は僕に同情しているように言った。
  65. 「最初は変な遊園地。そこで人間の種を植える老人に会って少し話をした。それから遊園地の端まで歩いたら、そこは戦場だった。三人の兵士を見たけれどみんな無気力だった。そしてその戦場で僕は怪我をし、気を失った。気が付いたらサーカス小屋に寝かされていた。それから何故か綱渡りの練習をやらされた。嫌だったから僕は逃げた。遊園地の中を逃げ回った。そこで一瞬、記憶が曖昧になって、今度は変なメリーゴーランドに乗っていた。回っている間に体が溶けて、暗闇の中を飛んで、病室にいった。ベッドには僕が寝ていた。周りには家族がいた。僕が死んで、母が泣いた。そして、今なんだ」
  66. 「ふうーん。やっぱり、人間ってひねくれているんだ。おいらなんてもっとシンプルだったもんな」
  67.  猫はひとりで感心している。かなり真剣にひとり頷いている。そして歩みを遅らせずこちらを向き、真面目な顔のまま答えた。
  68. 「さっきも言ったけど、あんたの見たものは本当におこったことだよ。すみからすみまで全部。見たものすべてが現実なんだ。見たものだけじゃなくても、思ったことも、考えたことも、感じたことも、聞いたことも、みんな現実なんだ。人間はそうじゃないだろう?人間の現実って、もっと狭いんだろう?」
  69.  猫はそこで言葉を切った。そして少し冷静に。
  70. 「最初に見たものはあんたの生きている間の出来事だよ。もちろん、短くなっているけどね。人間として生きている間の出来事を、あんた、見せてもらったんだ。聞いてると ・・・・・・ そうだな ・・・・・・ あんた達の言葉で言うと観念的というか、そういう感じだけど。よく考えてごらんよ。思い当るところがあるんじゃないかい?」
  71.  僕はもう一度、頭の中で繰り返した。ここに来るまでのストーリー。猫の言うようにめいいっぱい想像を膨らませ、考えてみた。
  72. 「あるかもしれない」
  73. 「そうだろう」
  74.  猫は嬉しそうに頷く。初めて僕に納得してもらえて、喜んでいるみたいだ。
  75. 「それから、あんたが見た病室は、さっき言ったとおり、あんたの死んだ瞬間だよ。そのふたつは見せてもらえることになっているんだ。生きてた時のことと死んだ瞬間は」
  76. 「見せてもらえるって、誰に?」
  77.  ふぅ。猫はため息をついた。
  78. 「人間って、本当に全部忘れているんだ ・・・・・・ 」
  79.  憐れむように呟く。
  80. 「あんたも何回かこの道を歩いたはずだよ。全然覚えていない?」
  81.  猫は声を少し荒げてそう言った。
  82.  この暗闇の道?僕にはまるで覚えがない。
  83.  僕は首を横に振った。
  84.  猫はもう一度、ため息をつく。
  85. 「ゆっくり歩こう ・・・・・・ 。ゆっくり説明してあげるよ。可哀相になってきた。おいらも付き合ってあげるからさ」
  86.  猫は歩みを遅くした。老人の散歩ぐらいのスピードに。
  87. 「まず、さっきの質問を答えてからだね。誰に?その質問から」
  88.  猫は前足を背中で組んだ。
  89.  暗闇は何処までも続いている。
  90. 「それは祖先さ」
  91. 「祖先?」
  92. 「そうさ。僕等の祖先。おいらとあんたの、そしてみんなの」
  93. 「どういう意味だい?僕にはよく分からない」
  94. 「まぁ、待っててくれ。質問せずにちょっと黙って聞いててくれよ」
  95.  僕は頷いた。
  96. 「あんた達、人間が宇宙と言っているものは、実はひとつのものなんだ。時空という波に沿って一続きに繋がり、全てはひとつなんだ。その宇宙も昔は小さかった。人間がよく使う物理的という言葉を使うと、すごく小さかった。それじゃ、その昔はどうだったか、ずっと昔はどんな宇宙だったかというと、それは言葉では表すことができない。時間も空間もないところに、ただ意志だけが浮遊していた。そう考えておくれ。おいらにはその意志がおいら達の祖先なんだ。だから、おいらもあんたもその意志の小さな、とっても小さな破片なんだ。小さな破片、ひとつひとつにはそれぞれに太古の意志が残ってる。おいら達はそれに忠実に動かされているに過ぎないんだ。ただ、あんたは人間という形になり、おいらは猫という形になり、それぞれの役目を果たしていただけなんだ」
  97. 「人間の役目って?」
  98.  僕は思わず言ってしまう。
  99.  だが、猫は嫌な顔せずに微かに笑みを浮かべ、答えてくれた。
  100. 「それはね、具体的にはないんだけど、全体的な意志としては増殖している方向にあるんだ。もちろん宇宙が、だよ。その中で人間というのは、地球という生命体惑星において、知性を司ってる。宇宙が小さな頃はよかったけれど大きくなると誰かが破片の相互間コミュニケーションをはかる生命体が必要なんだ。そしてその発展途中にあるのが人間、ホモサピエンスって奴らしいんだ。それで知性には宇宙の意志が必要以上に入っちゃいけないだろう。だから、人間にはこの道を忘れるようにセッティングされているんだって。人間って暗闇を恐がるんだろう?宇宙のことを考えると頭がぼうっとするんだろう?そんなふうにして回路が遮断されているんだ。でも、完全じゃないらしく時々、この道のことや意志のことを思い出すらしいよ。それで、宗教っていうのかな、たしか?ああいうのが人間の文化にできたんだ。自然や宇宙や暗闇に神秘的なベールを被せて、崇める文化が。あと三世代ぐらいすれば完成に近くなるらしいけどね。三百万年後ぐらいかな ・・・・・・ 」
  101. 「それで、僕はこれからどうなるんだい?」
  102.  すっかり話に夢中の猫。
  103. 「そうだね、そのことも言わなきゃいけないんだった」
  104.  赤く小さな舌をペロリと出した。
  105. 「あんたが今、いるところは太古の意志に向かう道なんだ。おいら達はそこに向かって歩いてる。時間も空間もないところに、凝縮された太古の意志の結晶に向かってね。おいら達はとりあえずそこに行って、次の司令を待つ。そこでは次に何になるかが決められるんだ。それは、人間かもしれないし、猫かもしれないし、別の惑星の生物かもしれないし、水分子かもしれないし、恒星の核分裂の原子核かもしれないし、真空を埋めるブラックマターかもしれない。とにかくそこでおいら達は次なる世代の命を受ける。そして宇宙意志に従って役目を果たすのさ」
  106. 「それは生まれ変わるってことかい?」
  107. 「そうだね、人間の言葉でいうと。でも、ただ、ぐるぐる回っているに過ぎないんだよ、みんな。ぐるぐる、ぐるぐると色々なところを。形ある宇宙という存在ができて以来、何千回も、何万回も、何億回も、何兆回も ・・・・・・ いや、もっと数えきれないくらいの周期を繰り返している。おいらも途中に人間を挟んでいるらしくて、よく覚えていないけどね。猫の前は光子だった。宇宙空間を突っ走る。気持ち良かったぜ。その前は地球じゃない何処か他の惑星の植物で、その前は自由電子をやってた。あんたもそうなんだよ。ただ人間だったから覚えていないだけなんだ」
  108.  猫は一度そこで言葉を切り、僕の顔を覗き込んだ。
  109. 「まだ、もうひとつピンときてないみたいだね」
  110.  僕は口をぽかんと開けていた。
  111. 「それじゃ、今から質問するから答えてくれる。いいかい?」
  112.  僕は口を閉じ、頷いた。
  113. 「あんたの体は何からできている?」
  114. 「細胞」
  115. 「それじゃ、細胞は?」
  116. 「分子」
  117. 「それじゃ、分子は?」
  118. 「原子」
  119. 「それじゃ、原子は?」
  120. 「原子核と電子」
  121. 「それじゃ、原子核と電子は?」
  122. 「素粒子」
  123. 「いいかい。人間という個体もそれぞれの階層からできているんだ。そうだろう?実は宇宙もそうなんだ。幾つもの数えきれない階層から成り立ってる。人間という個体は、その宇宙という観点から見ると一個の素粒子にすぎないんだよ。知性と感情という特徴を持った一個の素粒子にね。死ぬってことはそれが別の特徴に変わるだけなんだ。ただ、変わるだけ。ほとんどが知性や感情とは無縁の世界だからね。どうだい、おいらの言ってることが分かるかい?世界には無限の階層があって、おいら達はその一部にすぎないってこと。死ぬってことはその階層が変わるだけってこと。あんたを作っている細胞の中の素粒子にとってはあんたは宇宙なんだよ」
  124. 「それじゃ、こういうことなのかい。宇宙を分割していくと切りがなくて、人間っていうのはそのひとつの階層にすぎない、と」
  125. 「そんな感じかな ・・・・・・ 。あんたが次に素粒子になればよく分かるんだけど、素粒子もまだ分割できるんだ。つまり宇宙は永遠に分割されているという訳さ。もちろんその逆も言えるよ。あんたが宇宙と呼んでるものは本当の宇宙の一個の素粒子でしかないからね。この世界は永遠に広がっているし、永遠に分割できるんだ」
  126.  僕は途方もない話に目眩がしてきた。猫の話は僕の想像を越えていた。無限大に広がるマクロの世界と無限小に続くミクロの世界。僕という存在がとってもちっぽけなものに思えてきた。
  127. 「証明してあげようか?」
  128.  猫は僕に救いの手を差し伸べるように言う。
  129. 「さっきも言ったけど、人間はまだ不完全なんだ。太古の意志の指図を忠実に守るには役目不足なんだ。宇宙の物質の欠陥商品といってもいいよ。だから、幾らか中途半端な箇所を残してる。宗教のこともそのひとつさ。他にもまだある。そのひとつは夢だよ。あんたも夢を見るだろう?あれは太古の意志の名残なんだ。あんたが過去になっていたものの残像が夢なんだ。それともうひとつはデジャヴっていうのかな ・・・・・・ ほら、初めて行った場所なのに前に来たことがあると感じること。あれも夢と同じであんたが過去に体験したことを脳のどこかの細胞が記憶しているから起こることなんだ。知性を持つ完全な宇宙の伝播者になればそれはなくなるはずさ。きっとね」
  130.  そこで猫は足を止めた。
  131. 「ゆっくり歩いたのに、もう着いちゃったみたいだ。ほら、ずっと向こうを見てごらん。あんたにも見えるだろう?」
  132.  言われた通り、僕は立ち止まり、見る。じっと目を懲らして、暗闇の彼方を見回した。遥か前方に針の穴より小さい光の点。僕は頷いた。
  133. 「あれが入口だよ。もうちょっとだ。歩こう」
  134.  僕等はまた歩き始める。
  135.  近付くにつれ光の点は大きくなり、辺りには風が吹き始めた。風は僕の背後から光の点に、つまり光の点に向かって風が吸い込まれていた。光の点は目を背けるほど明るくはなかったが、僕を懐かしい気持ちにさせた。懐かしい気持ち ・・・・・・ 。いつか、僕はこの道を通ったことがある。猫の言葉に催眠術をかけられたように、いつしか僕はそんな気持ちになっていた。
  136.  段々、風が強くなってる。
  137. 「ついでに言っておくとね ・・・・・・ 」
  138.  風の音が激しくて猫の声がよく聞こえない。僕は聞き返した。猫は大きな声で叫ぶように言う。
  139. 「 ・・・・・・ 猫の役目は生きているだけなんだよ。生きているだけでいい。何も考えず、ただ内なる声に忠実に生活していればいいんだ。それが猫の仕事。おいら達には生きるってことの意味が明確に見えてる。短かったけど、とても面白かったよ。もう一度、なってみたい気がするもの。少しの知性と感情はあるから、夢も見るけどね。その微妙なミックスがいいんだ」
  140.  光の点は握りこぶし。風は強くなっている。暴風。暗闇の地面にへばりついていた足の裏が宙に浮きそう。体が震えてくる。何故だろう?恐いのか?何が?僕は急に昔の自分が懐かしい気がした。いや、もっと強く、してならない。戻りたい。元の体に。僕も人間が面白かったよ。とても、とても、とても。僕はよつんばいになり、飛ばされぬよう、目の前にある光の点に引き摺り込まれぬよう、四肢に力を入れた。
  141. 「恐がることはないよ」
  142.  僕の気持ちを察したのか、猫は僕の耳元で母のように諭す。
  143. 「おいらたちは意志の破片なんだから。それが元の形に戻るだけなんだから。何も恐れることはないんだ」
  144.  猫は新月のような瞳孔を僕に投げ掛け、にこやかに微笑んだ。とてもきれいな笑顔だと、僕は思った。
  145. 「それじゃ、おいらから行くよ。後からついておいで ・・・・・・ 」
  146.  猫は地面を蹴った。あっという間に光の点に消えていく。
  147.  僕は ・・・・・・ 。
  148.  と、思っている間に体が宙に浮き、僕は光の点に流れこんだ。僕の体のスピードは等加速度運動。音速を越え、やがて光速をも越えていく。光のトンネル。光の泡沫が飛び散ってる。そして、光の収束する場所にそのままのスピードで飛び込んだ。僕の周りは光の飽和。きれいだ。とても、きれいだ。光の粒が僕の体をくすぐる。何か大きなものに抱かれているような気分。
  149.  気持ちいい。
  150.  知らぬ間に満面の笑みを浮かべてた。
  151.  
  152.                    ☆
  153.  
  154.  僕は何処まで僕なのか?
  155.  僕という生物を細分化する。まずは器官に。皮膚、筋肉、骨、五臓六腑、体液、神経、脳髄。まだ僕だ。僕の特徴は保持されているはずだ。次に組織に、そして細胞に分ける。細胞には核があって、その中には遺伝子が詰まっている。アミノ酸が螺旋状に連なるとこ。でも、まだそれも僕だ。遺伝子は僕という個体の情報を隠している。さらに分ける。分子に、原子に、もっともっと、素粒子に。そこにはもう僕はいない。僕という生物を尊重する欠片も見当らない。それでは僕と僕じゃないものの分岐点は何処なんだろう?どこかにあるはずだ。ここからは僕、向こうは僕じゃない分割のラインが。
  156.  もしかすると、僕というものは何処にも存在しないのかもしれない。分岐点なんて単なる気のせいで、僕は誰かに踊らされている道化師なのかもしれない。誰かが、何かが、僕を動かしている。そんなふうにも考えられる。
  157.  人は何処まで自分で有り得るのか?
  158.  それを信じるも、信じないも、それはあなたの勝手だ。
  159.  
  160.                    ☆
  161.  
  162.  ぱちっ。頭の中、突然誰かの指を鳴らす音。まなこに突きささる光の剣、感じる。頭の中が軽い酩酊状態。無重力空間を彷徨う水の集合が眼前を遮っている。でも、これはさっきまで味わっていた不安定な意識ではなく、確かな現実味のある意識だ。本来あるべき不器用なものを身に纏う。ここはたぶん、普通の現実だ。
  163.  戻ってきた ・・・・・・ 。
  164.  長い夢だった。
  165.  僕は目を開けようとする。でも見えない。目蓋を開こうと踏張ってみるが、うまく力が入らない。目蓋の開閉を司る神経の場所がよく分からない。いろいろ試してみるが、どうもうまくいかない。
  166.  でも、耳は大丈夫だ。水の流れる音が聞こえる。川のせせらぎ?すごく近くだ。耳元でそれは聞こえる。
  167.  嗅覚も無事。匂いはたくさん混じっている。土の匂い。汚濁したゴミの匂い。酸味のきつい血の匂い。これらもすぐ近くにあるものだ。僕の体についているかもしれない。痛みがないところをみると、鎮痛剤を打たれているのか、誰かの血が僕についているのか、そんなところだろう。
  168.  触覚はあまりいいものじゃない。全身が粘着力のある液体で濡れていて、体温を奪っている。熱が肌から空気中へ移行しているのがよく分かる。
  169.  とりあえず、視覚をどうにかしなくては埒があかない。
  170.  と、僕の背中の辺りを何かが触れた。ざらっとした、得体の知れないものだ。とっさに僕は逃れようと身を引くのだが、動かない。全身の筋肉が痙攣したかのように震えるばかりだ。
  171.  また触れた。今度は数回、頭や下半身に生温い感触を残して、通り過ぎた。目蓋の上も。気持ち悪い。僕は必死に耐えた。耐えるしかなかった。
  172.  幾度か、それを繰り返しているうちに目蓋の上が急に軽くなった。僕はもう一度、開いてみた。ゆっくりと、徐々に慣らすように。まず薄目から、眼球に付着した粘液を取り払うかのように、全開に向かう。やがて、睫が上下に別れた。
  173.  黄色い太陽。今度はひとつだ。眩しい。一瞬、視界が真っ白になる。だが、それも束の間の明順応。やがて、スクリーンははっきりとした画面を映す。
  174.  象?いや、違う。目の前にいるのは象みたいに馬鹿でかい猫だ。髭もあるし、瞳孔もあるし、爪もある。象みたいに馬鹿でかい猫が僕のすぐ傍に寝転がっているのだ。猫は玄関マットぐらいの赤い舌を出し、僕の額を舐めた。さっきと同じざらっとした感触。体中の毛が一斉にいきり立った。僕はもがいた。逃げようと必死でもがいた。でも体は目蓋のようにはうまく動いてくれない。猫は僕の体を好きなように舐め回している。
  175.  心臓の辺りから熱いものが込み上げてきた。徐々に高まり、熱は喉仏に集まる。恐怖心は異常なまでの勢いで水銀柱を駆け昇る。あがき、高まり、あがき、高まり、全てが最高潮に達すると、声帯を空気が流れていった。
  176.  ?
  177.  僕は耳を疑う。耳に入ってきたものを信じることができない。張り詰めていた力が一気に萎んでしまう。茫然。今、僕が聞いた音の意味することを理解するのは簡単だ。だが、受け入れることは至難だ。
  178.  かぼそい波長が鼓膜の周囲で震え、僕の頭蓋骨の中でその振動が輪唱している。
  179.  恐る恐る、もう一度、声を出してみる。
  180.  
  181.  みゃう。
  182.  
  183.  どうやら、それが新しい僕の声のようだった。
  184.  
  185.                    ☆
  186.  
  187.  輪廻転生。
  188.  それを信じるも、信じないも、全てはあなたの勝手だ。
  189.  
  190.                    ☆
  191.  
  192.  僕は死んだ。一度死んで、そして、再び生き返った。
  193.  この話、嘘偽りは一切ない。
  194.  僕は生き返ったのだ。
  195.  僕は再生したのだ。
  196.  
  197.                    ☆
  198.  
  199.  今、僕の頭の中には旋律が鳴っている。起きている時はもちろん、眠っている間も常に旋律は流れている。
  200.  旋律はフラグメントな図形のように変わる。決して同じ音符や調子を繰り返したりはしない。眠る前には太母が囁く子守歌のように、空腹時には鼻をくすぐるようなスタッカートで、縄張り争いの段には戦いを鼓舞するようなリズムで、交配の季節には甘い官能の調べを僕に聞かせてくれる。
  201.  僕は幸せだ。
  202.  僕は人間の時代には味わったことのない ・・・・・・ いや、もうあの頃の感覚は忘れかけてる ・・・・・・ 至福感に包まれている。
  203.  とにかく、とても、幸せな気分。
  204.  それでいっぱい。
  205.  それだけで充分。
  206.  
  207.  
  208.  
  209.                            <了>